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07月17日 |
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長友佑都 |
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名 前 |
長友佑都 |
出身地 |
愛媛県西条市 |
生年月日 |
1986年9月12日 |
血液型 |
O型 |
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小学生の時に受けた愛媛FCジュニアセレクションに落選。高校時代はサッカーの強豪・東福岡高校でプレーするも、地区選抜に選ばれず全国的には全くの無名選手だった。
明治大学時代には怪我が重なり、パチンコなど遊興に溺れたり、スタンドでチームの応援をするなどフラストレーションの溜まる日々を過ごす。
転機となったのは大学2年生の時。チームの監督が圧倒的なフィジカルを持つ長友に目を付け、サイドバックにコンバート。ここから急速に頭角を現していく。プロ相手の練習試合で結果を残し、そのまま大学に在籍しながらJリーグのFC東京に入団。
サイドバックという世界でも人材難のポジションに彗星のごとく現れた“フィジカルモンスター”はあっという間にJリーグの舞台を席巻。プロ入り後たった半年で日本代表に選ばれる。
2010年南アフリカワールドカップに全4試合にフル出場。この時の活躍を見ていたイタリアのACチェゼーナが、大会後にオファーを出し移籍。闘いの舞台をセリエAへと移す。
チェゼーナでも全試合に出場し活躍。イタリアでも長友のプレーは通用し、チームメイト、サポーターから愛される存在となる。
2011年に日本代表として出場したアジアカップで、優勝を決めるゴールをアシストするなど全試合にフル出場し大活躍。大会終了後、イタリアに戻った長友を待っていたのは、当時クラブ世界王者だったイタリアが誇る名門インテルナツィオナーレ・ミラノ(通称:インテル)への移籍だった。無名選手がプロデビューからわずか2年程で、世界屈指のビッグクラブへ加入するというシンデレラストーリーをやってのけた。
2013年12月22日、セリエA・ACミラン戦(ミラノダービー)において、後半に交代でピッチを去る選手からキャプテンマークを受け継ぎ、腕に巻く長友の姿がそこにあった。在籍4シーズン目、移籍当初は長友なんかがインテルのスタメンとして試合に出れるのか?成功すのか?という疑問符を世界中のインテルファンが持っていた。だが長友は、監督が変わってもその都度信頼を勝ち取り試合に出続け、ライバルが加入してもそれに打ち勝ち試合に出続け、気がつけばキャプテンマークを巻けるほどインテルの大黒柱になった。
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2011 |
インテルに移籍
日本代表としてAFCアジアカップで優勝 |
2010 |
ACチェゼーナに移籍
日本代表として、FIFAワールドカップ南アフリカに出場 |
2008 |
サッカー男子日本代表として北京オリンピックに出場 |
2007 |
FC東京に入団 |
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長友を語る上で外せないのが移籍期間最終日に実現した、チェゼーナ→インテルへの移籍だろう。
当時、イタリア語が堪能ではなかった長友とインテルの交渉は難航。
鹿島アントラーズに所属経験のある監督のレオナルドが困った挙句に取った秘策が、鹿島アントラーズ時代にお世話になった通訳の鈴木国弘氏に国際電話をかけ、通訳を頼むという事だった。ブラジル人であるレオナルドが、イタリア語で書かれた契約書をポルトガル語にし、鈴木氏がポルトガル語から日本語にして、長友に伝えられる。全ての作業が終了し移籍が完了したのは、期限終了時間の3分前だったというドラマチックな展開だった。
また、コミュニケーション能力の高い選手としても有名。ウェズレイ・スナイデル(オランダ代表)や、アントニオ・カッサーノ(イタリア代表)といった性格に難のあると思われている有名選手と、仲良く遊んでいる姿が度々報じられている。 |
◎ 長友佑都への道
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母子家庭の出身。
「女手一人で自分を含む3兄弟を育てる母に経済的に早く楽をさせたかった」と語るなど、プロとして成功した裏ではこういったハングリーな環境が長友を育てたのかもしれない。
それと同時に“人との巡り合わせ”や“強運”も長友をは持っている。
大学時代、もしあの時監督が長友をコンバートしていなかったら?
移籍時、もしあの時レオナルドが鈴木氏に電話をかけていなかったら?
インテルでは、監督が変わる度にスタメンを外されたりもした。しかし、スタメンに復帰した試合で大活躍をし、以後スタメンを死守するという事が何度もある。
イタリアに移籍する前から「目標は世界一のサイドバック」と公言。近年ではその目標が確実に現実になりつつある。 |
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