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07月17日 |
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アルベルト・ザッケローニ |
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名 前 |
アルベルト・ザッケローニ |
出身地 |
イタリア・エミリア=ロマーニャ州 |
生年月日 |
1953年4月1日 |
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Alberto Zaccheroni(アルベルト・ザッケローニ)
愛称はザック。サッカー日本代表の監督を務めている。
怪我の影響などもあり20歳を前に選手生活を終え、家業のペンションの従業員を務めたり、保険代理店を経営したりして生活していた。
その後、幼少チームの指揮を執るなど指導者の道を歩み始め、1983年に当時セリエC2のチェゼナティコの監督に就任する。
ザッケローニの名をイタリア全土に知らしめたのが、1995年に指揮を執ったウディネーゼ時代。
守備的なサッカーが好まれるカルチョ(イタリア語でサッカーの意)の国で、大胆な攻撃サッカーを展開する。決して強豪クラブではないウディネーゼで、1997-1998シーズンを3位という好成績を収めた。この実績が評価され、翌シーズンから強豪クラブACミランの監督へと就任。
ACミランでは、初年度でセリエAで優勝(スクデットを獲得)するなど、一躍イタリアを代表する監督へと名声を高めたが、2001年にミランの監督を解任された後は、2002年にラツィオの監督に途中就任→解任、2003年にはインテル、2006年にはトリノ、2009年にはユヴェントスと就任→解任を繰り返し、結果の出ない日々が続く。
2010年、日本代表の監督に就任することが決まる。
ザッケローニ指向する攻撃的なサッカー観と、日本サッカー協会の役員がザッケローニに会った際の誠実な人柄、真面目さに惹かれてのオファーだった。
“サムライブルー”を率いたザッケローニは、アジアカップを制しアジアの頂点に輝くと、2014年のブラジルワールドカップの地区予選を世界最速で突破。親善試合とはいえ、アルゼンチンやフランスといったサッカー強豪国に勝利をおさめるなど、母国イタリアでは「終わった監督」と思われていたザッケローニへの評価が再び高まっている。
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2013 |
東アジアカップ 優勝 |
2012 |
イタリア共和国功労勲章 コンメンダトーレ章 |
2011 |
AFCアジアカップ 優勝
イタリアサッカー連盟 特別賞受賞
イタリア チェゼナーティコ名誉市民賞受賞
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1999 |
セリエA スクデット獲得(優勝)
オスカル・デル・カルチョ 監督賞受賞 |
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日本人以上に日本のことを愛し、理解を深めようとしている姿が好印象の指揮官。
イタリア国内でインタビューに応じる際には、必ずと言っていいほど日本を絶賛し「私は半分日本人だと思っている」と語るなど、日本を愛してやまない。
記者会見やインタビューで見せる紳士的な振る舞いは枚挙に暇がないが、指揮官としての顔は、時に頑固で、時に大胆だ。
ブラジルワールドカップに選出された日本代表のメンバーを見てみると、大胆にも守備的な選手を1人削って攻撃的な選手を入れていたり、高さというオプションを捨て、4年間固執してきたパスサッカーを体現できるメンバーを選出している。 |
◎ アルベルト・ザッケローニへの道
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イタリア南部出身(ナポリ)のジローラモのような所謂“陽気で女ったらし”のイタリア人ではなく、真面目で職人気質の人柄が多いとされている北部の出身であるザッケローニ。
しかし、「人に指導をするというのは恋愛に近い」と語っている。
例えば、恋人に対して不満な点があった場合、「君のことを嫌いになりたくないから、この部分(不満)を直してほしい。」と伝えるのと、「君は素晴らしい。ただ、この部分(不満)を直せばもっと素晴らしくなるし、今よりもっと好きになるだろう。」と伝えるのでは、どちらの方が相手が気分良く意見を聞いてくれるか一目瞭然だ。
このような相手への細かい気の配り方や、優しさを見せるザッケローニの指導法は、北部出身者とはいえ女性の扱いに慣れたイタリア人らしい指導法だと言えるだろう。
試合中は鋭い眼光で戦況を見守り、まるでマフィアのドンのようなザッケローニだが、日本に捧げた4年間の集大成をブラジルの地で見せてほしい。 |
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