今や日本を代表する車メーカーの1つとなった「ホンダ」。
そのホンダの創業者である
『本田宗一郎』さんから仕事術を学びます!
本田宗一郎
静岡県磐田郡に生まれた「本田宗一郎」。
鍛冶職人をしていた父親から、生まれつきの手の器用さと機械への好奇心を引き継いでいたそうです。
やがて父親が、自動車の修理を頼まれたことをきっかけに自動車販売店を開業します。
鍛冶屋のかたわら、中古自動車を研究・修理し、安く販売することで近所からも評判の自動車販売店へとなっていきました。これにより、本田宗一郎さんも自動車に興味を持ちます。
小学校卒業後、15歳からアート商会という自動車修理工場に勤め、6年間様々な事を学びます。
アート商会での経験が彼のその後に大きく影響しており、自身も「尊敬する人は?」の問いに「アート商会の主人、榊原郁三氏」の名前を必ず挙げるほどだそうです。
臨機応変にきく機転、自分で考え工夫する発想の豊かさ、勘の良さ、また仕事に対するひたむきな一生懸命さを榊原さんに認められた本田さんは唯一のれん分けを許され独立を果たします。
自分が好きな事に対し、しっかりと物事を考え自ら工夫していくことは、どの仕事においてもすごく大事な姿勢ですね。
逆境による挫折
自動車修理工場事業を順調に拡大させ、アート商会支店を弟子に譲り渡した後、東海精機重工業株式会社へ社長として入社します。
持ち前の研究熱心さと仕事へ没頭する一生懸命さで、東海精機重工業が軌道に乗っていた矢先に、太平洋戦争による空爆と、南海大地震により東海精機重工業の山下工場と磐田工場が倒壊。
大きな挫折により本田さんは、所有していた東海精機重工業の全株を豊田自動織機に売却して退社、「人間休業」と称して1年間の休養に入りました。
休養を取った1年後、1946年に「本田技術研究所(現:ホンダ)」を設立。
さらにその1年後、運命的な出会いを果たします。
藤澤武夫との出会い
後に、ホンダの副社長となる「藤澤武夫」と出会い、お互いが一目で気に入り意気投合。
性格が全く違い、仕事の得意分野もまるで違っていた2人ですが、気の合った理由を聞くと「こっちの持っていないものを、あっちが持っていたからだ」と同じ理由を述べたそうです。
藤澤さんは者を売る能力に長けており、本田さんの作った商品を藤澤さんが売る、まさに「適材適所」を極めた名コンビとなっていきます。
自由奔放でありながらも時間や仕事に対する姿勢は筋を通す本田さん、それを横でコントロールしながら支える藤澤さん、そんな2人がいたからこそ今のホンダがあるのではないでしょうか。
成功したければ、失敗せよ。そのためには「試すこと」
本田さんはホンダが伸びた理由として、「失敗を恐れず試してみること」を続けてきたからだと語ります。
「人生において、「見る」「聞く」「試す」。この3つはとても大事なこと。そのなかでも「試す」ことは最も大切である。」
本田さん自らが、いろんなことを率先して試みているからこそ、社員も安心して新しいことにチャレンジできるのです。もちろん失敗も多いですが、それが成功へのチャンスになる事を誰よりも知っている本田さんだからこそ説得力のある言葉ですね。
いかがでしたか?
どれだけ挫折しても諦めない気持ちを持っていれば、いつかはチャンスが巡ってくるものです。
その時にチャンスを物に出来るよう、様々な知識を持って臨機応変に行動できるような人間になる事が出来れば、成功も近いのではないでしょうか。